2011年3月29日

初ブログです。

Hola Amigos!

初ブログなので、自己紹介と近況を絡めながら、綴ります。





私は2008年1月からの1年半、メキシコの学校で働いていた。
その町では一番古く、有名な学校で、留学生の85%は北米から、残りはヨーロッパ、日本・韓国から集まり、夏には100人近くがスペイン語を学んでいた。

ところが、2008年秋に起こったリーマンショックの影響で、学校にとっては命綱であるアメリカ人留学生のキャンセルが相次いだ。
追い討ちをかけるように、メキシコ・アメリカの国境沿いのドラッグ戦争によって治安が悪化。
アメリカはいつもメキシコについて悪く報じるので、更にメキシコからアメリカ人留学生が遠ざかる。
それにとどめを刺したのが、2009年の4月にメキシコを襲った豚インフルエンザ。
各国のメディアでとても大きく取り上げられたため、アメリカや日本から帰国勧告のあった留学生が次々と帰国し、生徒はたった5人になった。

しかし、実際メキシコでは日本やアメリカで騒がれていたほどのパニックはなく、メキシカンたちはマスクさえしていなかったのだ。
飲み歩きの好きなメキシカンたちにしては珍しく3日間ほど外出を控えていたくらいかな。
基本は普段どおり。少なくとも私が住んでいた町では。

親の命令で日本に帰国した友人がいたが、不運にも帰国直後に日本でも豚インフルエンザが流行し始めた。
世界に絶対に安全な場所なんてどこにもないのがわかった瞬間だった。

メキシコでの仕事に終止符を打ち、サンフランシスコで旨いブリトーにうつつを抜かしていた数ヶ月の間に、その学校が経営難でつぶれたと報告を受けた。



私は神戸っ子。
小学6年生の頃、阪神大震災を経験した。
訳も分からずただ怖くて、一日中、膝ががくがく震えた。

ライフラインが絶たれ、”被災者”となった私に、母親はこう言った。
「あんたなんか家族も家も無事で被災者ちゃうでしょ。なら、自分ができることを探して来なさい。」
3つ年上の姉と一緒に集会所に行った。
「何かできること、ありますか?」
配給か何かの準備に追われる大人たちがいたが、私たちは必要ないと言われてしまう。
ほどなくして、私が生まれた神戸市民病院でボランティア募集の張り紙を見つけた。
給水車の水をタンクに入れ、各階へ運ぶ仕事。
入院患者さんに「小さいのに偉いねぇ」なんて言われて、ちょっと得意げだった。
新生児室にも入れてもらったりして、わくわくした。
地震で休みだった学校が再開してからも、病院で水運びをしてから通学した。
蛇口から水が出るようになって、私は役目を終えた。
小さいけれど、私に出来ることを、やった。



今回の大地震と大津波の衝撃的な映像が全世界に流れた。
日本のことをあまり知らない国の人にとっては、宮城も京都も同じ。
日本は地震が起こるから危ないとか、日本は放射能があるから危ないといったネガティブな印象を完全に植えつけてしまった。
どうしても日本に行きたい理由がある人以外は、あえて日本を旅行先として選ばないだろう、残念ながら。

日本の旅行産業は出口の見えないトンネルに入った。
そこから早く抜け出すために私にできることは、こんな状況下に京都へ来てくれたお客さんをおもてなしすること。

そして、元気な日本を発信すること。

0 コメント: