a cultural Galapagos



日本は「ガラパゴス」という言葉でたびたび形容される。

 大陸から隔絶され、独自の進化を遂げた「ガラパゴス諸島」の生態系になぞらえた、言わば日本社会に対する警句である。身近な例を挙げると、日本国内で独自の進化を遂げ、今や海外のスマートフォンに淘汰されつつある携帯電話市場がそれだ。「ケータイ」のような工業製品だけではなく、医療や教育などのサービス産業、さらには日本人の思考そのものがガラパゴス化しつつあると指摘されている。決していい意味を持つ形容詞ではない。

しかし、旅行ガイドブックの代名詞「ロンリープラネット」の序章部分を読んでいると、日本は「文化的ガラパゴス(”a cultural Galapagos”)」であるとの表記がある。これはむしろ日本の持つガラパゴス的な独自の文化を、海外からの好奇心と畏敬の念を込めて表現した言葉であるように感じる。


先日、そのガラパゴス的な日本の文化を見に、お茶の産地として有名な宇治へ向かった。毎年6月から9月下旬にかけて催される、宇治川の鵜飼いである。

鵜飼いは主に日本と中国で行われている、鵜を使った伝統的な漁法で、日本を訪れた隋使により中国大陸に伝わったと言われている(諸説有り)。現在国内では岐阜県長良川をはじめとする13箇所にて行われており、京都ではその内の2箇所、宇治と嵐山にてその原始的な漁法を見ることが出来る。

宇治川の鵜飼いは、さかのぼること平安時代、藤原道綱の母が書した「蜻蛉日記」にも登場する。仏教思想の広まりと、平安貴族の凋落とともに一時は衰退したが、大正15年に再興し、現在は宇治川の花火大会とともに宇治の夏の風物詩となっている。
現在ではもっぱら観光事業として行われているわけで、かく言う私も屋台船に乗り優雅に見物するつもりであった。しかし、開始時刻まで腹ごしらえをしている間に出船してしまったらしく、仕方なく川岸から眺めることに。

 夕陽に照らされた川面に爽やかな風が吹く中、折烏帽子に腰みの姿の伝統的な装束に身を包んだ女性鵜匠が、船上で鵜と鵜飼いについての説明を始めた。


鵜飼漁で捕る魚は主に鮎。舟の舳先で揺れる松明は、照明以外にも鮎の鱗を反射させ鵜が捕まえやすいようにする役割がある事。鵜ののどに巻かれた紐によって鵜はある大きさ以上の魚を飲み込むことができなくなっており、紐の巻き加減によって漁獲する鮎の大きさを決めている事。鵜飼漁で獲れる魚は、傷がつかないうえに鵜の食道で一瞬にして気絶させるために鮮度が長持ちする事など、非常に興味深い話を聞くことが出来た。

日が落ちてくると、いよいよ鵜飼いが始まる。舟の上から何羽もの鵜を操り、鵜が水中で鮎を捕らえるとすかさず鵜ののどを掴み、巧みに鮎を取りだし籠に入れる。そのリズミカルで洗練された一連の動作に、屋台船の見物客からはワァと歓声があがっていた。


 
屋台船には外国人観光客の姿も多く見受けられた。夢中で写真を撮る彼らの姿を対岸から眺めながら、「環境保護団体なんかに訴えたりしないだろうか」と余計な心配をしてしまった。



 余談だが、鵜飼いに魅せられた著名人に、あのチャールズ・チャップリンがいる。彼は鵜飼い見物に二度も岐阜県長良川を訪れ、「鵜飼いは一遍の詩であり、鵜匠は詩人である」と言い残したそうだ。
チャップリンをも魅了した、幽玄なかがり火が織り成す幻想的な世界は1時間ほどで終了し、すっかり暗くなった宇治川の畔で現実へと引き戻された。


非効率であることが良しとされない現代において、漁獲効率の悪い鵜飼いはまさに「ガラパゴス的」である。しかし、それはその非効率さゆえに洗練されており、確かに美しかった。

世界から孤立してしまう日本経済のガラパゴス化は忌々しき事態であるが、「文化的ガラパゴス」は、むしろこの国の強みではなかろうか、と無数の虫刺されをかきむしりながら思料にふけり帰路に就いた。

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