2013年4月27日

京都と中国人


台湾人の友人と共に青蓮院を訪れた。

青蓮院(しょうれんいん)は、正しくは青蓮院門跡と称される。門跡寺院とは、門主(住職)が皇室あるいは摂関家によって受け継がれてきたお寺のことらしく、つまりは皇室とふか~い関わりのある格式高いお寺ということ。かの親鸞聖人が得度(とくど:平たく言えば出家すること)されたという由緒ある寺院でもある。

その歴史の古さは、門前にそびえ立つ楠の大きさを見れば想像に難くない。長屋門の白壁をバックに、禍々しい枝ぶりの大楠が数本。親鸞聖人の御手植というのだから、樹齢800年といったところか。まさに歴史の生き証人。スゴイ。

 
同行者の友人アイリーンは、かなりの京都好きで、年に一度は京都を訪れ、御朱印帳を手にせっせと寺巡りをしている。そんな彼女も青蓮院に実際に足を踏み入れるのは今回が初めてだったらしく、たっぷりと時間をかけて広い境内を見てまわった。

先述したが、親鸞聖人は8歳のときにこの青蓮院にて得度された。その折に剃髪された髪の毛は境内の植髪堂(うえかみどう)にて保管されている12歳の親鸞を写したという墨染姿で合掌する漆黒の木像の前に座り、何を考えるでもなく物思いにふけっていると、同じく隣でなにやら思案していたアイリーンが、ぽつりと言った。「京都にはTangの文化が残っている。とっても素晴らしいことだわ。」Tangと言われ一瞬舌(tongue)のことかと思いギョッとしたが、どうやら彼女は唐のことを言っているらしかった。

言わずもがな、平安京は長安の都を模して作られたわけだし、その時代の最先端であった唐朝の文明を吸収するべく、日本人は命をかけて大陸へと渡った。なるほど中国人は、京都にあふれかえるお寺や神社を見てまわっては、はるか昔の祖国の文化に思いをはせているらしい。でも、西安(Xi'an)にも色々残っているんじゃないの?という私の素朴な疑問に、アイリーンは少し悲しそうな顔をした。
「素晴らしい中国の文化も、素晴らしい中国人の道徳も、もう中国にはほとんど残っていない。文化大革命でほとんどなくなってしまった。」

 
回遊式の静かな庭園内を歩きながら、壮大すぎる中国の歴史について考えた。

中国四千年の歴史とは言うものの、同じ民族の支配が四千年続いたわけではない。語弊を恐れず言ってしまえば、中国大陸の歴史はそもそも民族間の侵略と破壊の歴史なわけで、文化大革命によってはじめて古代の文明や文化が滅ぼされたとは言い切れない、というのが私の勝手な解釈だ。でも、文化大革命、という言葉を初めて中国人の口から耳にした私は、返答に困って頷いただけだった。

 
宸殿前庭でも、大楠が見事な枝振りを見せ付けていた。巨木の前に立ち、幼き日の親鸞が楠の苗を植えている姿を想像して、時の流れに頭が痛くなる思いがした。

楠に向かって、いったい何歳なんだろうとアイリーンはつぶやいた。

「中国には儒教というすばらしい精神があった。歴史的な建造物や寺院もたくさんあった。古代からの伝統や庶民の文化があった。素晴らしい教養をもった知識人や文化人、徳のある僧侶もたくさんいた。私は、京都に来て、はるか昔に中国から伝わった文化が今の時代まで大切に保存され、継承されているのを見るたびに、中国が失ってしまったものについて考え、悲しくなる。」

私たちはそれから、日本人の宗教観、日本の仏教とほかのアジア諸国の仏教の違い、京都の魅力について、とりとめもなく語り合った。

アイリーンは、18歳までマレーシアで育ち、台湾に移り住んだ。生まれ育った環境のせいか、彼女は非常にオープンマインドでリベラルだ。だから、彼女の考えが中国大陸の青年たちの一般的な考えだとは思わない。でも、彼女の話を聞いて、中国人が京都に見出す魅力というのは、押しなべて、異国情緒というよりもむしろ自国文化への自負やノスタルジーであるのかもしれないと思った。

 
寺社仏閣以外にも、京都には中国人の心を惹きつけてやまない観光スポットがあるのをご存知だろうか。

景勝地・嵐山の亀山公園内に人目を避けるようにひっそりと佇む、周恩来が詠んだ「雨中嵐山」の石碑である。

中華人民共和国建国以前から毛沢東を支え続け、建国の母などとも称される周恩来は、19歳の頃日本に留学している。中国が混乱の時代にある中、異国の地で友人と祖国の将来について語り合い、必死に勉学に励むも、希望した大学に不合格。日本滞在の後半は京都に住み、京都大学の聴講生となっていたようだ。失意の中帰国する1カ月前の45日、周恩来は嵐山にてこの句を詠んだ。

周恩来は、文化大革命中も最後まで失脚を免れた。祖国を愛し、民を愛した彼だったが、毛沢東に反旗を翻し、文化大革命の流れを止めることはついに出来なかった。権力にこだわる毛沢東の恐ろしさを最もよく知るのが、建国以前から共に歩んできた周恩来だったのである。血の粛正の中を生き延びた周恩来は、愛する祖国の文化遺産が破壊され、人々が無慈悲に殺されていく中、いったい何を思い、何を目指したのだろう。

「雨中嵐山」の後半の句にはこうある。「人間社会のすべての真理は、 求めれば求めるほどあいまいである。 だが、そのあいまいさの中に、 一点の光明を見つけた時には、さらに美しく思われる。」

若き日の周恩来が見つけた一点の光明とは、単純に共産主義のことなのだろうか。

平安時代から変わらぬ美しい風景の中で、遠く離れた祖国を思い詠まれた周恩来の句を一目見ようと、石碑を訪れる中国人観光客は後を絶たない。


2 コメント:

昨年HW社のアジア会議に行った時、休憩時間に各国から来た宿オーナー達が余興で自国の踊りや歌を披露した事があって、その時に上海から来ていた担当者が「私たちはなにもできない。boring race・・・」とぽつりと呟いていた事を思い出しました。そうだね、中国や朝鮮半島の人々の為にも、日本の(≒東アジアの)伝統的な文化を継承してゆきたいですね。

ご朱印書のコレクション。私の周りでもちょっとしたブームです。
それ集めてどうすんの?って訊いたら、「お棺の中に入れてもらう」のだそうです。台湾でもそう?
何百年の樹木の成長に思いを馳せて庭を造るという造形美。
GW明けの新緑の季節。個人的に京の一番いい季節にそのくすのきに会いにいこう行こうと思いました。
台湾人が昔の中国の歴史に思いを馳せる。当たり前ながら、はっとした。
お茶道具で唐物(からもの)は仰山ある。唐の時代って東アジアにとってそこは憧れの地だったのでしょうか。