「考えない人」になるな

 最近読んだ本で、いたく同感したものがある。

   「 醜い日本の私」  中島義道 著

 まずはAmazonさんのお力を拝借して、内容紹介。

 「頭上には電線がとぐろを巻き、街ではスピーカーががなりたてる、ゴミ溜めのような日本。美に敏感なはずの国民が、なぜ醜さに鈍感なのか? 客への応対は卑屈で、「奴隷的サービス」に徹する店員たち。その微温的「気配り」や「他人を思いやる心」など、日本人の美徳の裏側に潜むグロテスクな感情 を暴き、押し付けがましい「優しさ」に断固として立ち向う。戦う哲学者の反・日本文化論。」





 日本に滞在している西洋人と話していると、こう言われることがある。
「日本ってこんなにも美しい文化、自然、建造物を持っているのに、なんか、おしいんだよね。」

 そのとおりだと思う。
石畳の花見小路のすぐ脇で輝く性風俗の看板、神社仏閣の背景に入り込むマンション、京都市南区にやたら多い無意味な街角の標語、わけのわからんキャンペーンソング、かく言うジェイホッパーズ京都の目の前の歩道も、こぼれんばかりのピンクの花をつけた木々の周りを、誰が何のためにか知らんが造花で飾っている。
(「おしい!広島県!」キャンペーンのように、おしい!をあえて売りにするなら話は別だが。)

 著者の言うとおり、接客にしてもそうである。
 「~させていただきます」の乱用、思ってもいないのにすぐに口をつく「申し訳ございません」、「ありがとうございました」と喋るATM、過保護な車内放送。そこに人間味のかけらも感じられない。

 では、なぜそのようになってしまうのか。
 考えないからである。ふと立ち止まって、それに疑問を抱かない人々。疑問は持てど、アクションを起こさない人々。その無責任さによって出来上がったのがこの光景であり、接客である。
 美しいものを作り出すには、常に感性を研ぎ澄ませていなければならない。美しい街で生まれ育った西洋人は自然にそれを体得している。美しいものを、足すことも引くこともせず守り続けているからこそ、絶え間ない魅力を持ち続けるのだ。
 
 と、いうわけで。(ちなみにこれも京都の花街にある看板に書かれたラブホの名前)
「考える人」も「考えない人」も、ぜひ読んでみてほしい一冊。


 


コメント

saho さんの投稿…
一方でそのゴミだめのような景観のカオスさにある種のオリエンタリズムを感じ惹きつけられる西洋人は多い。そして彼らは口をそろえて「日本はcleanだ」と言う。景観の醜さと清潔さが共存している日本と、美しい街並みの中に汚物やゴミや落書きがそこら中にある西洋(というくくりでいいのかは置いといて)、どちらも興味深い。