神様の留守
10月5日(金曜日)付け京都新聞の凡語(天声人語みたいなやつ)は
めずらしく筆が冴えていました。(←京都新聞のかた、上から目線ですみません。)
すこし抜き出してみます。
出だし。
「陰暦のなごりで今でも10月のことを神無月(かんなづき)という。
全国の神様がこの月にこぞって出雲大社に集まって、
出雲以外の国では「神様のいない月」になるので、
神無月の名がついたという説がある。」
ふむふむなかなか面白~い。
そして、
「神様が留守だからというわけではあるまいが、
陰暦10月には各地で流行性感冒の患者が出始める。
現在ではインフルエンザという名が一般的だが、この病気が初めて日本に入ってきた時は「お染風(そめかぜ)」と呼んだそうだ」
何でかというと、、
「おそらく恋風と云うような意味で、お染が久松に惚れたように、
すぐに感染するという謎であるらしく思われた、という」
(お染は大坂の油問屋の娘で、奉公人の久松と心中した)
面白いのが当時の人々が考え出したその対処法。
「お染の名をもつ風邪が家の中に入ってこないよう
戸口に「久松留守」という紙札が張られた」のだそうな!
実は京都にも戸口に張り紙をする風習があったらしいです。
「はしか(麻疹)がはやりだすと、子どもを狙う疫病神を追い返すために
「子供るす」と書いた紙をさかさに張る家があった」
というからほほえましい←まぁ当時の人々にとってはほほえむようなネタではなく
恐ろしい病が伝染してこないよう、必死の策だったと思いますが。
今も昔も病気はこわい。
でも、病気だけではなく未知のできごとに対する、その向き合い方というか付き合い方は、
今と昔では全く違っているようにかんじました。
未知との遭遇はだれでもこわい。
でもこわさと同時に、驚いたり発見したり生み出したり、そういう機会も含まれていて、
そこからまた知恵が生まれる。
現代には転ばぬ先の杖がやたらめったら転がっていて、
結局それにつまずかぬよう自らをがんじがらめにしているうちに、
どんどん知恵を失っていっている気がしました。
なんてことを思っているのは、携帯電話が壊れてしまって携帯レス生活を1ヶ月ほど営んで、携帯電話がなくてもなんだけっこう大丈夫じゃないかと思っているジェイホッパーズ京都のかりー(しばた)でした。(←Kyoseraのひとすみません。)
ちゃんちゃん
凡語の全文はこちら。「神様の留守」
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